岐阜県中津川市出身の画家。
晩年には外界との接触を避け『文化勲章』も辞退、
外出することもなく自宅の庭の動植物をモチーフに作品制作を続け「現代の仙人」等と呼ばれた。
若きころは東京美術学校(現在の東京藝大)を首席で卒業する程の画力の持ち主であったが、
職業としての画家になることはなかった。
また、『絵は描きたいときに描く』というスタンスであった為、
42歳で結婚したあとも生活の為に筆をとることはなかった。
再び絵を描き始め、それが売れるようになったのは戦後以降であった。
画風の特長として初期の写実的作風から、晩年の守一様式と呼ばれる
平面的で単純明瞭化された色使いと輪郭線への変化が見られる。
鋭い観察眼で対象を見つめ動植物、とりわけ花々や猫・虫を好んで描いた。
画面構成は明快でありながら、それでいて対象の内面まで描き出す守一の作品の評価は
非常に高く、その独特な世界観にファンも多い。
1880年 岐阜県に生まれる。父は初代岐阜市長、熊谷孫六郎。
1904年 東京美術学校西洋画科選科卒業。同期生に青木繁など
1905年 樺太調査隊に参加
1909年 第3回文展に『ローソク』出品
1915年 第2回二科展に『女』出品
1933年 日動画廊で藤田嗣治らと3人展
1964年 パリで大個展
1966年 近代日本洋画の150年展出品
1967年 文化勲章受章者に内定。しかし「これ以上人が来るようになっては困る」と辞退
1972年 勲三等叙勲の内示を辞退
1976年 岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館設立
1977年 肺炎で死去。享年97
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